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百年の茅台酒が語る秘話 (日本版)
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作者:李永亮
2022-07-10
ノンフィクション
 
≪百年の茅台酒が語る秘話≫
――日本代表卓球選手松﨑キミ代と周恩来の友情

作者:李永亮

「松﨑さん、お父様はお酒がお好きですか」
「大好きです、毎日晩酌をしています」
「それなら、私のところに中国の茅台酒のいいものが1本ありますから、記念に差し上げましょう。解放前に封をされたままの古酒で、今ではほとんど手に入らないものです」
これは中華人民共和国初代総理である周恩来と、日本の元世界卓球選手権チャンピオンである松﨑キミ代との対話の一コマ。
1961年4月20日夜、北京飯店の宴会場でのことである。

 (一)松﨑キミ代の遥かな記憶の中で、この晩の感動的な場面は生涯忘れられないものだ。
  第26回世界卓球選手権大会に参加するため、22歳の松﨑キミ代は初めて北京を訪れた。出発前夜、松﨑は世界地図をしげしげと眺めた。東京から北京までどれくらいあるのか彼女は知らなかったのだ。当時、日本と中国はまだ正式な国交回復前だったため、日本代表団は香港を回って深圳に入り、さらに列車で広州を経由して行かなければならなかった。松﨑たち一行が北京の新僑飯店に到着するまでに3日が過ぎた。

  1950年代末から60年代初め、松﨑は世界卓球界のスーパースターだった。40年代から50年代に生まれた中国人にとって、松﨑キミ代の名前は非常になじみがあり、また親しみを感じる人物でもあった。彼女は世界選手権女子シングルスで2度優勝したうえ、日本卓球チームに数えきれないほどの金?銀メダルをもたらした。松﨑の鮮やかなテクニックとすばらしい態度は、多くの卓球ファンの間で美談として語り伝えられ、「微笑む戦いの女神」と讃えられた。

  しかし、北京で彼女は初めて負けを喫する。日本卓球チームの主力選手として、松﨑は女子団体と混合ダブルスと2個の金メダルを獲得しており、順当にいけば女子シングルスの金メダルも当然彼女のものだった。現に前回の女子シングルスの優勝者は彼女だったのだ。しかし不測の事態というのは起こるもので、ごく些細な、取るに足らないような原因により、松﨑は準決勝で力を充分発揮できなかった。相手はハンガリーのコチアンで、国際卓球連盟のランキングによれば松﨑の勝利はほぼ確実だ。ところが、松﨑が1ゲーム目を取った後、形勢は逆転し始める。コチアンのボールはネットイン〔ネットをかすって入る〕でなければ、エッジ〔台の縁に当たって落ちる。いずれも取りにくいボール〕なのだった。

  1万5000人を収容する北京工人体育館で、当時の観客の対日感情はけっしてよくなかった。日本選手が試合に臨むとき、観客は得てして相手側の選手に声援を送った。しかし松﨑キミ代のこの試合で、特に点差が開き始めたときから、観客の反応は明らかに変わってきた。彼女がミスをするとため息が漏れ、得点が入ると拍手を送る。試合の間、松﨑キミ代は相変わらず淡々とした表情と態度を崩さなかった。激戦の末負けたときも、彼女は笑顔でコチアンと握手を交わし、勝利を讃えた。

  試合が終わり、北京を離れる前の晩、周恩来総理がわざわざ北京飯店で日本代表団のために送別宴を開いてくれたことを松﨑キミ代はよく覚えている。入り口で出迎えてくれた周総理は、松﨑を見ると歩み寄り、親指を立てて日本語で「あなたは一番です」と言った。

  松﨑は不安に駆られた。「間違いなく私の負けなのに、周総理はなぜ褒めてくださったのかしら?」
  その後、疑問は解けた。周恩来総理は送別会の挨拶の際、わざわざ松﨑を話題に出し、「勝っておごらず、負けてくじけず、友好を第一に、勝負を第二にした。彼女はスポーツ選手のお手本であり、中国の選手は彼女の技術と風格、両方を学ぶべきだ」と述べたのだ。宴会のとき、松﨑の席は周総理のとなりにしつらえられた。「VIP待遇ということですね」と、彼女は感極まって振り返る。「周総理は気さくに世間話もしてくださいました」

  宿泊先の新僑飯店に戻ったのは真夜中過ぎだった。松﨑キミ代一行がエレベーターに乗ろうとしたとき、周恩来総理の秘書が追いかけてきた。手には総理から贈られた茅台酒の瓶を抱えている。
  赤いリボンが結ばれ、神秘的な光沢をまとった茅台酒の瓶を眺めながら、松﨑は興奮で寝つけなかった。彼女はホテルの便箋で遠く香川県にいる父に手紙を書いた。
 
お父さんへ。今夜は誇らしくて、嬉しくて、眠れそうにありません。試合の結果についてはもう報道を見たことでしょうから詳しくは言いません。お知らせしたい本題は、今日の夕方、中国の大政治家である周恩来総理が日本代表団のために送別会を催してくださったこと、もっとありがたいのは、周総理からお父さんにと贈られた茅台酒を受け取ったことです。これは一番有名な名酒だそうです。明日から2週間、私たちは中国各地を回って友好交流試合をします。この貴重な茅台酒は、よくよく注意して、傷一つつけないように持って帰りますから、楽しみにしていてください。
 


 
(二)言葉どおり、それからの2週間、松﨑はこの茅台酒を携えて各地を駆け回った。旅の途中は、生活用品からユニフォームや大事なラケットに至るまで全部託送できたが、茅台酒だけは片時も手元から離さなかった。訪問先に着くと、ベッドだの寝具だのにはお構いなしで、真っ先に探すのは茅台酒の瓶をしまう戸棚だった。周総理の心のこもった言葉と、周総理に対する嬉しい気がかりを胸に、松﨑は様々な交流試合で、相手の中国人選手に自分のプレイの心得と技術を無心に伝授した。このことで彼女は卓球界に多くの友人ができる。そのつき合いは半世紀以上も続き、姉妹同然になった。

  よく晴れた5月のある日のこと、松﨑キミ代はとうとう茅台酒を携えて故郷――香川県の高瀬町に帰り着いた。松﨑の帰郷で、小さな町はお祭り騒ぎになった。純朴な香川の人たちにとって、中国の総理から贈られた茅台酒はメダルより大切だったのだ。メダルならこれからも獲得する機会があるかもしれないが、中国の総理からの名酒は一生手に入らないだろう。松﨑の両親は町で小さな酒屋を営んでおり、日本各地の清酒や焼酎を扱っていた。スコッチウイスキーやコニャックも一通り味わっていたが、中国の茅台酒は評判しか知らなかった。

  その晩のことは、松﨑にとって楽しい記憶だ。父はことのほか元気で、父も招かれた親戚や友人も、茅台の瓶を捧げ持ったまま、ためつすがめつして楽しんでいた。大勢の人が好奇と期待の目で見守る中、父はようやく心を決めて震える手で瓶を開けた。その瞬間、馥郁たる香りが部屋中に溢れた。杯に注がれた茅台酒は透き通っている。みんなが順繰りにほんの少しずつ口をつけ、口々にいい酒だと言った。口当たりはマイルドですっきりしており、飲めないキミ代にまでそれが伝わって、ほんのりと酔いを味わった。傍らにいた母は飲み過ぎないようにと、すぐに瓶の蓋を閉めて封印してしまった。その後、この酒は父が世を去るまで開けずじまいになる。松﨑家では、この貴重きわまりない酒をどう保管するかが家族の一大事になった。日本は湿度が高く、地震も多いため、父は薄紙や布、防水紙で何重にもくるみ、万一に備えて地震で家が倒壊しても酒瓶が割れないよう、畳の下の一番安全な場所にしまったのだという。この話をするとき、松﨑の言葉には自然と熱がこもった。

  翌年10月、北京の西山の紅葉が色づき始めるころ、日本の卓球チームは再び北京を訪れた。周恩来総理の提案に応じて、毎年交代で卓球の中日親善交流試合を行うためである。小さな白い球には間違いなく不思議な力があり、ゆっくりと、
だが確実に巨大な球を動かしつつあった。国家体育運動委員会のトレーニング拠点にさっそうとやって来た周総理は、にこやかに言葉を交わし、かつて傷めた右手で日本の選手一人一人と握手をした。

  松﨑はすかさず周恩来総理に歩み寄った。その日、彼女の面持ちはいささか緊張気味で、不安を抱えていた。というのも、茅台酒へのお礼として周総理にささやかなプレゼントを贈ろうとしていたからだ。それはピンポン玉をかたどったバッジで、手前には満開の桜、その向こうには真っ白な雪をまとった富士山が描かれている。すっきりとした構図に深い意味があるものだ。松﨑が大事にしてきた宝物で、12歳のときに日本青少年卓球大会で獲得した記念バッジだった。周恩来総理から贈られた茅台酒に比べると、このバッジの価値は取るに足らないものかもしれない。しかし周総理は喜んで受け取った。そして松﨑はバッジを丁寧に総理の胸元に止めた。その瞬間、居合わせた記者がすかさずシャッターを切った。歴史的な場面を刻み付けたこのモノクロ写真の前では、いかなる言葉も必要ない。我々は、これまで見た笑顔の中で最も甘美で輝かしいものだと言わざるを得ない。そして、これまで見たまなざしの中で最も誠意と慈愛に満ちたものだと言わざるを得ない。

  公開されていなかったこの写真は、最近になって周総理の親戚から松﨑キミ代に送られてきた。写真に表れているのは周恩来総理と松﨑キミ代のかつての友情、記されているのは中国と日本、政治家と一般市民が親しく交流してきた道のりである。
茅台酒に結ばれていた赤いリボンは、まさに友好を結ぶものであり、松﨑キミ代と周恩来総理はその後15年余りにわたって交流を重ねた。この15年余りの間に、松﨑と周総理は13回面会したが、松﨑は今でも毎回の様子を事細かに思い浮かべることができる。東京にいても、慈父のように細やかな周総理の思いやりを常に感じている。


 
(三)松﨑にはいくつもの思い出がある。1964年秋、日本卓球チームとともに北京を訪れ、周恩来総理の家に招かれたときのこと。鄧頴超夫人は自ら厨房に立ち、故郷の名物料理紅焼獅子頭〔揚げた大きな肉団子の醤油煮込み〕を作ってくれた。松﨑は感無量だった。実はこのとき、彼女はすでにラケットを置いた引退の身。第27回世界卓球大会で女子シングルス優勝を成し遂げた後、身体を壊したためである。彼女は自分が何者でもない、決まった仕事すら見つかっていないと言っていた。しかし周総理は依然として彼女のことを気遣い、「特別な客」として招いたのだった。

  また2年後の1966年、彼女に恋人ができたと知った周総理夫妻から、赤いシルクの布団カバー2枚をお祝いに贈られた。中国では、喜びの訪れや願いがかなうことを赤い色が象徴しているので、あなた方が円満で幸せな家庭を築くよう願っているという言葉が添えられていた。

  松﨑は1972年の冬にも北京を訪問した。このとき彼女はOB選手団の一人としてアジア卓球親善試合に参加したのだった。周恩来総理は各国の選手たちの陣中見舞いのため、多忙の合間を縫って選手の宿泊地を訪れた。日本チームの休憩室で松﨑と面会した周総理は、「松﨑さん、そろそろお子さんは?」と優しく尋ねた。どういうわけか、このとき彼女の口から「総理と同じで、子供はいません」という言葉が飛び出した。このことで松﨑は後々まで悔やむことになる。しかし周総理は怒りもせず、鄧頴超夫人と一緒に彼女の身体を気遣った。国家体育運動委員会は松﨑夫妻を2回続けて治療のため北京に招いたのである。林巧稚ら中国一流の婦人科の医師たちが、西洋医学から中国医学、上海から北京までにわたる専門家チームを作り、松﨑は生まれてから最も行き届いた治療とケアを受けた。

  日本に戻る日、周恩来総理はまた「おめでたのときはすぐに知らせてください」と優しく諭した。
  日本航空の機内で、彼方の雲と夕日を眺めながら、松﨑の心はなかなか静まらなかった。もしこの世に山より重く、海より深い思いやりがあるとしたら、もしこの世にジャスミンのように清々しく、春の日差しのように温かく、清らかな泉のように澄みきった友情があるとしたら、何年にもわたって松﨑が感じてきたのはまさにそういう思いやりであり、友情であった。松﨑とその夫は、ただひたすら早く子供を授かりたいと願い、そしてそれは遠くない将来のことだろうと考えた。子供の名前を考えるため、2人は日本の広辞苑と中国の新華詞典を何度もひっくり返し、とうとう「曄」というすばらしい名前を思いついた。「日」へんに「華」で、男の子でも女の子でも構わない。実にいい名前だった。

  名前は決まったが、松﨑の願いはついにかなうことがなかった。天の神様はときに、すばらしい人に味方してくれないことがある。アダムとイブのどちらに問題があったのかは分からない。しかし、茅台酒は変わることなくそこにある。周恩来総理から贈られた茅台酒は松﨑の家でまる14年を過ごした後、香川県の高瀬村から東京の恵比寿にある松﨑の新居に移ってきた。正月や節句のたび、あるいは何か嬉しいことがあったとき、松﨑は大事にしまってある茅台酒を取り出し、瓶の首の埃を払ったり、念入りに瓶を拭いたりせずにはいられなかった。それからまた新しい薄紙や布、防水油紙で何重にもくるみ直すのだった。まるで自分の子供のように大事に守っているの、子供ではないけれど子供以上に、夏は暑くないか、冬は寒くないか、地震があれば割れてはいないかと、心配の種が尽きないのよ、と松﨑は笑いながら友人に語ったことがある。

  松﨑にとっては幸いなことに、この茅台酒の本当の価値を彼女が知ったのはずいぶん後になってからだった。周総理の姪と秘書の口から知らされたところによれば、これは貴州の茅台酒工場が中華人民共和国建国10周年を祝って、周恩来総理に献上したものだった。詰められているのは50年以上封印されていた茅台酒であるため、瓶の裏側のラベルには赤い文字で「解放前の古酒」と書いてある。我らが周総理はそれを大事に2年間しまっておいた後、中国と日本の友好を築き、進めるため、日本の友人である松﨑に贈ったということだ。
 



(四)1975年の盛夏、日中シニア卓球選手の親善対抗試合に参加するため、松﨑はまた中国の地を踏んだ。しかしこのとき北京では周総理と会うことはできなかった。「こんなことは今までありませんでした」と、松﨑は声を詰まらせる。彼女の心には悪い予感が生まれた。東京に戻ると、その夜のうちに彼女は周恩来総理に手紙を書いた。切羽詰まって彼女が封筒に書いた宛先は「中国 北京中南海 周恩来総理」。実のところ、松﨑は周総理の詳しい住所など知るはずがなかったし、この手紙が周総理の手元に届くかどうか知る由もなかった。

  堪えがたい夏が過ぎ、秋になった。秋が過ぎれば厳寒の冬である。その間に、日本のメディアは周恩来総理の体調について様々に憶測していた。ある新聞社の記者などは前もって松﨑に、周総理についての印象と感想をインタビューしに来た。

  とうとう訃報が伝わってきた。松﨑はそれを聞くとすぐに確認した。1976年1月9日の明け方、駐日本中国大使館の前にはすでに多くの日本人が寒風をものともせず哀悼のため行列を作っていた。よく見ると、その最前列に立っているのは松﨑キミ代だった。髪を乱し、目に涙をためた彼女は新華社の記者に「テレビに映った周恩来総理の遺影を見てすぐ、東京に住んでいる卓球仲間に電話して、敬愛する総理への告別のためみんなで一緒に中国大使館に行こうと言ったのです」と語った。松﨑はさらに、日本のどんな大物が亡くなっても、これほど心を痛めることはないと声を震わせた。

  夜になって、松﨑夫妻は茅台酒を取り出し、周恩来総理の写真の前に恭しく置いた。遥かな北京の空に向かって両手を合わせ、こらえきれず茅台酒に向かって声を上げて泣いた。

  時は瞬く間に流れ、日付は一気に2011年4月20日まで飛ぶ。この日は松﨑にとって特別な意味を持っている。周総理から茅台酒を贈られてちょうど50年の記念日なのだった。

  もう何度目の訪中だか分からなくなってしまったが、今日の目的地は北京ではなく、中国の南西部である。彼女は世界的な名酒の里を訪れ、そして偉大なる友人の銅像も見に行くのだ。そして彼女の胸にはもう一つ重要な使命があった。これまでの半世紀の間に、外の世界には極めて大きな変化があったが、松﨑が育み守ってきた友好の気持ちにはいささかも変わりがなく、茅台酒を保管すると同時に、そこに託された美しい精神を汲み、深く純粋な真心を味わってきた。

  彼女はかつて中国の卓球代表選手と直接顔を合わせて交流し、スポーツ選手のメンタル資質を説き、日本型のフットワークを伝授したことがある。
  彼女は中国の十数カ所の省と市の青少年体育学院で指導をしたことがある。彼女のさっそうとした姿と笑顔は、若い卓球選手たちに強い印象を残した。

  中国卓球チーム初のメダル獲得と、その後の目覚ましい進歩の裏には、松﨑キミ代のささやかな貢献があったに違いない。
彼女が発起人の一人となって始めた香川、岡山と青島、東京と北京の市民卓球親善試合は十数年続いており、天候のために中断したことはない。松﨑は、日中両国は隣国であり、一般市民としての自分たちが交流をするべきで、みな友情を熱望していると考えている。民間の活動の多くは手弁当で、彼女の懐も豊かとは言えない。しかし彼女はそれでも楽しくて、疲れることがない。
 

(五)貴州に到着し、湿り気を帯びた空気を吸い込んで、松﨑は格別な親しみを感じた。かつて世界の卓球界を騒がせた微笑みの女神は、今でも足取りは軽く、穏やかな笑みを絶やさない。しかし74歳の自分はもう若くないと感じ、周総理から贈られた茅台酒に新しい居場所を探して、周恩来総理がまいた日中友好の種を何世代にもわたって伝えていかなくてはならないと思ったのである。彼女は長いこと考え続けた。

  あるとき、東京でオークション業に携わっていた中国人の友達から「この茅台酒がもしオークションに出されたら、きっととんでもない値がつくよ」と声を掛けられた。

  松﨑はにっこりして、「高値なんて必要ないの、ただしっかりした行き先を探したいのよ」と言った。「おめでたのときは、すぐに知らせてください」という周総理の温かい言葉が彼女の耳元に響いた。
  このとき、彼女は決めた。この茅台酒を、誕生の地に送り届けようと。

  周総理の銅像の前で、貴州茅台酒グループは盛大な寄贈セレモニーを執り行った。

  松﨑は微かに震える両の手で、貴州茅台酒グループの季克良総裁とともに、この長い年月を刻んだ茅台酒を捧げ持った。彼女は溢れる涙をこらえきれず、ただそっと呟いた。「敬愛する周恩来総理、ご覧になれますか。50年前の今日、私に贈ってくださったこの貴重な茅台酒を、今その故郷に送り届けました。このお酒は中国で、茅台酒工場で、永遠に日中両国民の深い友情を語り続けていくでしょう……」

  貴州訪問によって、松﨑が気にかけてきた人生の一大事にけりがついた。しかし同時に、彼女の肩には別の責任がかかった。松﨑が保管してきて寄贈した、この世に二つとない茅台酒への返礼に、貴州茅台酒グループは彼女に「貴州茅台酒グループ終身職員」という栄えある称号を送ることを決めたのである。

  松﨑の頭には様々な考えが浮かんでは消えた。幼いころ彼女が卓球をすることについては、両親の強い反対があった。長女であるキミ代に、両親は家業を継いで松﨑酒店の主になってほしかったのである。松﨑家の家業を継がなかった娘が、半世紀後に中国の茅台酒工場の終身職員になるとは、他界した松﨑の父親はどう思ったことだろうか。百年の茅台酒は、貴州茅台酒の博物館に鎮座している。明かりに照らされ、いっそう質実に、いっそう純粋に見える。ただ歴史が長いだけでなく、保存されてきた伝説的ないきさつは、現代の世界でも類を見ないものだろう。

  瓶の口に結んであった赤いリボンは暗紅色に変わり、松﨑キミ代の長いようで短かった半世紀を、生命のように大事にしてきた周恩来との友情を物語っているようだ。微かに黄ばんだ瓶には重々しい光沢がわずかに残っており、周恩来総理が手ずから作り上げた中日友好がどれほど容易でないことだったかをひそやかに詠っているようでもある。もし酒瓶を揺すってみれば、玉のような液体が内壁に当たる微かな音が聞こえるだろう。それが何を祈っているのかと想像してみるのも味わい深い。

  松﨑キミ代というこの名前が、次の世代の人々の記憶にも残ってゆくことを願うばかりである。
 

(翻訳 古屋順子)




 

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